我慢強さなんて、ちっとも美しくない
「石の上にも三年」
そんなことわざもあるように、日本では「我慢すること」が美徳として捉えられている節がある。
我慢強い人は評価され、我慢ができない人は根性なしと揶揄され、コミュニティの中では疎まれる。
「我慢」が美徳になりえるのは、「個」よりも「全」を優先すべき発展途上の社会
これはおそらく侍とか武士道とかそういう時代の、思考が影響しているように思う。
将軍や武士が国を治めていた日本では「お国のため」「○○家のため」という 「個」よりも「全」を優先すべきという思考が強くあり、「全」を優先するためには「個」の我慢が必要不可欠であったため、我慢強さは美徳として考えられていた。
確かにお国を成長させるため、集団を大きくするためには、この犠牲や我慢が必要になる。
これは日本だけでなく発展途上の国においても同じだし、ベンチャー企業など成長過程の会社なども同じだろう。
しかし我慢強さが美徳として考えられている社会やコミュニティは、あるべき姿ではないし、目指すべき社会でもない。
個を押し殺して成り立つ社会なんて、健全な社会としては成り立っていないのだ。
我慢することには「見返りを求める傲慢さ」もある
「会社のため」「上司のため」「家族のため」「恋人のため」
もしかしたら未だに、誰かのために我慢を続けている人もいるかもしれない。
確かに自分さえ我慢して世の中がうまく回るんだったら、わがままを通すより、自分が我慢してしまう方が簡単だ。
しかし我慢することと引き換えに、見返りを求めていたりしないだろうか?
「我慢強さ」より「わがままを通す強さ」を
私が高校生の時大好きだったドラマで唯川恵さん原作の『肩ごしの恋人』という作品がある。
その作品の中で登場する自由奔放な女性・室野るり子はこう話す。
「わがままを通すほうが我慢するより本当はずっと難しいんだから。楽して人に好かれようとしてるだけでしょ。我慢と引き換えに見返りを求めてるだけ。私はどんなに落ちぶれても我慢強い女にだけはならないって決めてるんだから」
るり子が話すように、我慢することは美徳なんかじゃない。むしろ、少しの自惚れや、相手に見返りを求める傲慢さまでも内包している可能性があるのだ。
そんなゆがんだ行為であるならば、欲求を素直にあらわにする「わがままを通す」ことの方が人間として自然であり、純粋な行為であるように思う。
周りの人に我慢を強制される社会は未成熟である。そして勝手に「相手のため」だと思って我慢する行為は、傲慢でもある。
だから「我慢強さ」なんてちっとも美しくない。我慢強くなるよりも、「わがままを通す」強さを身に着けることの方が、よほど個人も社会も自由になれるのではないかと思う。
※この記事は2017年3月に執筆した文章を加筆修正したものです。